Sep30th

長戸大幸 wiki

ようこそ!長戸大幸wikiへ!

長戸大幸さんは、日本の音楽プロデューサーの草分け、パイオニア的存在です。
1948年 4月6日、滋賀県は大津市にて産声をあげます。
地元の滋賀県立膳所高校卒業し、大学は青山学院大学に進学するも、中退する。
1978年 音楽制作会社(株)ビーイング設立し、現在は関連会社60社のオーナーでもある。

誕生からバンド活動期まで

長戸大幸さんは、早くから洋楽に目覚め、エレキギターを始めます。
ちょうどGS(グループ・サウンズの略。後述するザ・タイガース、カーナビーツや堺正章らが所属していたザ・スパイダース等多数が活躍)が流行っていました。

高校在学中よりバンド活動を開始することになる。
当時のメンバーには後のカーナビーツの2代目ボーカル・ポール岡田(70年代後半からはCMプロデューサー)、後にソニー洋楽ディレクターやフジパシフィック音楽出版役員を歴任した森下影夫らが居た。卒業後に組んだバンドの対バン相手には後のザ・タイガース(沢田研二らが所属)等が居り、またその後のバンドでは、京都で開催されたジョン・メイヤー&ザ・ブルースブレイカーズのオープニング・アクトをドラマーとして務めた事もあった。

このように日本のロック黎明期にバンドをやっていた人物は、今も現役でアーティストやミュージシャン、作曲家として活動する者や、プロデューサーとして活躍している者も少なくない。その中でも特に長戸大幸さんは異色の存在だったようです。

その後、GSブームが衰退すると、69年にフォーク・ロックバンド「赤と黒」を結成、長戸大幸さんはリーダー、ボーカル、作詞&作曲を担当。同年テイチクレコードより「Mr.DJ」でデビューを果たした。バンドはあまり売れず活動停止になり、長戸大幸さんは東京を離れ、京都でブティックを開店、見事に成功した。しかし長戸大幸さんはあえて全てを捨てて、もう一度音楽をやる決心をして1975年に再び上京。吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、小室等らで設立したばかりのフォーライフレコードの第一回目のオーディションに合格した。その後阿久悠に作曲家として認められて、オフィス・トゥワンに所属、作曲家・編曲家として活動を開始した。

音楽制作会社の立ち上げ

長戸大幸さんは、その頃からアーティストという表舞台よりも、プロデューサーや作曲家等、どちらかというと裏方的な、端的に言うとクリエイティブな存在志向が強くなっていた。作曲家として本格的にスタートした長戸大幸さんは、すぐに和田アキ子、舘ひろし等著名なアーティストの作曲・編曲を依頼されるようになる。
そしてポパイのテーマソングを当時大流行していたディスコサウンドでアレンジした「ポパイ・ザ・セーラーマン」(スピニッヂ・パワー)をプロデュースした。これはボーカリスト、ミュージシャン、作曲家、作詞家など様々な才能が集結したグループで、長戸大幸さんは集まってきた若き精鋭を中心に、音楽制作者集団を立ち上げる事になる。
その発想が母体となって、長戸大幸さんは1978年11月、音楽制作会社・ビーイングを立ち上げた。